森修を偲んで
                                               一般社団法人フロンティア理事 矢上卓弥

2016年7月2日にフロンティア理事の森修が永眠しました。
葬儀には500名近くの方々が参列され、「森修さんを偲ぶ会」は72名もの参加者が集まる大きなイベントとして執り行われました。介護有志団体のみでなく、共に闘い続けた運動期のお仲間や、森修が大学で開講していた授業の受講生会議のメンバーなどの多くの「つながり」からで、そのご参加だけを見ても、森修の存在・運動の偉大さを感じることのできる時間だったように思います。


重度脳性まひ障がい者である森修は、まだ制度のなかった1970年代から、障がい者の権利を「取り戻す」ための運動を青い芝の会など当事者団体や、ボランティア団体と一緒に精力的に行ってきました。今、フロンティアがスローガンとして掲げている「障がい者が当たり前に暮らせる地域の実現」は、当時から森修が訴え続けていた主張です。

 制度のなかった時代は、当然今のようなヘルパーも居ません。森修は多くの健全者へ強烈な自己主張・アプローチを重ね、介護有志団体を結成しました。この介護者団体を中心として「在宅『障害』者の地域での生活を獲得する会」「『障害』者解放四條畷・大東市民会議」といった活動基盤を作り上げ、多くの運動の成果をこの四條畷・大東に残しています。例えば、四條畷は全国で始めて「24時間公的介護保障」の必要性を認めた自治体だそうです。
 
 その「任意団体」と森修の「運動」はおよそ30年も続きました。しかし徐々にヘルパーなどの「社会資源」が充実してくる中で、「任意団体」としての活動に限界性が見えてきます。そのような状況で、森修は地域に2つもの「法人」を残しました。それが「特定非営利活動法人あとからゆっくり」と、わたしたち「一般社団法人フロンティア」です。わたしが森修と出会ったのがちょうど「法人」を立ち上げた時代で、森修自身も昔からの「任意団体」とのこだわりと、新たな取り組みとの合間で悩み、揺れていた時期だったように思います。森修の「自分は自分らしく、生きていきたいのだ」という主張にどう寄り添うか(呼応しあうか)という軸がやはりその移ろいの中でも重要だったように思います。
ところで「フロンティア」という名前ですが、「これまでの運動に引っ張られず柔軟に新たな取り組み(活動)をしていこう」という思いを込め、森修が名づけました。その思いに応えられるように、たくさんの新しい取り組みを提案し、たくさんの新しい出会いを作っていきたいです。
 森修が克ち取ってきた多くの成果はそれで完成形ではありません。これからも「障がい者が当たり前に暮らせる地域の実現」をキーワードにわたしたちもその森修と残してくれた活動の一端を担っていければと思っています。